私の家族
今朝は祖母の介護認定の事で、ケアマネさんとの面談。
大正生まれの93歳。まだまだ元気なおばぁちゃん。
先日、田舎から住民票を移し晴れて豊中市民になった。
この父方の祖母が大阪に来て、もう丸2年になる。
今、実家で父と2人、元気に暮らしている。
この春からはそこに私達も加わり、5人家族になる。
そうなの、同居生活がスタートするのだ!
一昨年、闘病中だった母の見舞いにこちらに来たまま、
祖母は田舎には帰らなかった。
母がもう長くないと分かり、自宅で看取ると決めた時
『 こんな嫁を置いて、田舎には帰れん。』と、そのまま大阪に残った。
毎日バタバタと看護をしている自分の子供や孫達を、
祖母はずっと側で見ていた。
そもそも料理を全くしないどころか、お茶すら入れて
くれない。朝昼晩、時間になったら、ちょこんとテーブ
ルに座って、食事が出てくるのを待つ。
そんな祖母の事を、最初とても負担に感じた。
母の事で精一杯なのに、祖母の世話までとんでもないと
腹も立った。
田舎の叔父や叔母も困っていた。
こちらの状況が分かっているだけに、どうしたものかと
いつも話していた。
見舞いに来る度に『 今日こそは、連れて帰るから。』
と言いながら。
でもどうしても何を言っても祖母は帰らなかった(笑)
でもね、そんな祖母が何か愛おしくなってきてね。
祖母も何か自分に出来る事をって、家の中をいつも
ウロウロしてね。
母のベッドの脇に座っては、母の足をいつもさすって。
『 可哀想に。どこが痛いんや? 私が変わって
あげられたらなぁ…。』
先に逝くであろう息子の嫁を、祖母はどんな気持ちで
見ていたのだろう。
丸めた背中で、部屋の隅の方で拭き掃除をしてたり。
洗い物は出来ると、お茶碗を洗ってくれたりね。
皆んなの役に立とうって祖母なりに思ってるのがね…。
そんな祖母に『 帰ってくれ。』とは言えなかったの。
それでも母の葬式の後、田舎に帰るのかと思いきや。
『 息子ひとり置いて、田舎には帰れん。』と言った時
疲れてクタクタだった私達は、顔を見合わせて思わず
笑ってしまった。どないしても帰らんのやな…(爆笑)
それから、丸2年……今に至るのです(笑)
父も、真っ暗な家に帰るのは辛かったのだろう。
ずっと家族で住んでた家に、ひとりで暮らすのはきっと
寂しかったんだと思う。
父はまだ現役で仕事をしているので、祖母が帰りを待っ
ている方が、張合いが出来て良かったんだと思う。
田舎の叔父も叔母も、自分達が祖母から解放され楽にな
ると喜んだ訳じゃない。
祖母を私達に押し付けた訳では決してないの。
それどころか、たくさん協力もしてくれる。
何か出来ること、困ったことはないかと、いつも気にか
けて連絡をくれる。
そんな叔父や叔母に対して、感謝こそすれ、不満や
文句なんてこれっぽっちもない。
逆に、長い間ずっと祖母と暮らしてきたのだから、こん
な時くらい、少しゆっくりして欲しいと思ってる。
こういう事は、それぞれの家族、親族で、ちゃんと話し
合いが出来ていれば、側から見たら分からなくても、
どんな形であっても、それで良いんだと思う。
祖母も一緒に暮らすと話すと、大概の方に言われる。
『 えーっ…由美ちゃん大変になるやん! 自分の身体
の事もあるし、仕事もあるのに、大丈夫なの??』
……もちろんね、考えなかったわけではない。
でもね、私は自分のスタイルは変えずにやってくよ。
私自身の治療、家庭や子育て、そしてもちろん仕事も。
福祉も申請して、助けてもらえる所はそうする。
自分で出来る事はするし、出来ない事はお願いする。
長男次男関係ない。出来る人が、出来る時にする。
これからもずっと、ただ淡々と。それでいい。
それと、一緒に生活をする事は、子供の為にもきっと
良いと思ってる。
お爺ちゃん、お婆ちゃんと暮らすとね、たくさん学ぶ。
きっと、優しく穏やかな心、敬う心が育つと思ってる。
現代の核家族化の中で、こんな暮らしが出来る事に
感謝しよう。
さぁ、全てを受け入れて、ワクワクしながら
ひとつずつ、楽しくやって行こう。
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